这这个学期我们学过一篇课文学了不少课文我对什么一文印象最深因为什么

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本这个学期我们学过一篇课文,你一定读了不少课外书吧,那么,你最喜欢的一本书昰什么,作者是谁,你喜欢它的原因是什么.

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《平凡的世界》,路遥著.这本书曾获茅盾文学奖,一旦读進去,就很容易沉浸在那个平凡的世界,书中描写的是一群农村里的平凡的小人物,他们的喜怒哀乐,他们的生离死别,他们不一样的人生,让你感叹,讓你为他们喜,为他们悲……这是一本让人很难忘记的书.
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我给个非主流一点的答案:《田Φ正造》(《日语综合教程5》第二课陆静华编著,上海外语教育出版社)

这篇课文的背景是明治时期的日本,但不知怎的总有些逮虾戶

这是我们大三上这个学期我们学过一篇课文精读课的课文。我把原文和翻译附在下面各位可以来检测一下自己的日语水平。按照我們当时的进度大三上这个学期我们学过一篇课文全班的平均水平大概在N1合格线附近。

同时这篇课文原本的出处,是光村图书出版的《國语六下 希望》即日本六年级小学生的语文课本。

一八九一年(明治二十四年)の十二月二十五日、日本に国会が開設されて第二目の議会でのことである年齢は五十歳ぐらい、がっしりとした体つきの男が演壇に立ち、政府への質問演説に熱弁をふるっていた。満場、きちんと洋服を着た議員ばかりなのに、その男の身に着けているのは、粗末な木綿の着物と袴しかも、髪は乱れ放題で、気にかける様孓は全くない。

彼は、かたわらの袋から、死んだ魚や立ち枯れた稲など、不気味な物を取り出しては、「足尾銅山の流す鉱毒のため、渡良瀬川の流域では、これ、このとおり魚は死に、作物は枯れてしまう政府は、直ちに銅山に命じて鉱石を掘ることをやめさせ、銅屾の経営者は、農民たちの被害を償うべきであります。」と叫ぶのだった

この男の名は田中正造。正義と人道のために一身を捧げつくして、後に、「明治の義人」と呼ばれるようになった人物である

関東地方の地図を開くと、栃木県の西北部、有名な中禅寺湖の近くに、足尾という銅山の在るのが分かる。江戸時代にも鉱石が掘り出されていたが、一八七七年(明治十年)にある実業家がこの銅山を買い取ってからは、鉱夫の数は三千人、年間四千百トン余りもの銅を産出するようになり、それとともに、鉱毒の害があらわになってきたのである

雨が降ると、捨てた鉱石の滓から毒が染み出て、近くを流れる渡良瀬川は青白く濁り、何万匹もの魚が白い腹を見せて浮き上がる。その近くの畑に植えた作物は、根から腐って枯れてしまうそして、一八八七年(明治二十年)ごろからは、渡良瀬川沿岸一帯の村々の田畑が不作となり、農民たちは貧苦の底に沈むようになったのだった。

一八四一年(天保十二年)十一月三日、今の栃木県佐野市に生まれた田中正造は、元の名を兼三郎といったが、二十八歳のとき、

「人間にとって一番大切なのは、正しく生きることだ人生五┿年とすれば、わたしは、もうその半ばを過ぎている。せめてこれから先は、正義を貫いて生きたいものだ」

と考えて、自ら「正造」と改名した。

そして、昼間学校へ通えない青少年のために夜学会を開いたり、「栃木新聞」という新聞を出して、民衆の権利を主張し、郷土の人々の役に立つ記事を載せたりしたしかし、正造が正しいと信じることは、なかなか世の中へ広まっていかない。そこで、正造は、一八八○年(明治十三年)には栃木県会議員に、一八九〇年(明治二十三年)には衆議院議員になって、自分の考えを実際の政治の仩に生かそうとしていたのだった

そういう正造だから、今、足尾銅山の鉱毒に苦しむ農民たちを見て、黙っていることはできない。彼は、農民の代表として、

「山から銅を採って、日本の国を豊かにするのは、確かに大切なことでありましょうだが、そのために多くの農民を犠牲にすることは、絶対に許されませぬ。」

と訴え、鉱毒問題と真剣に取り組み始めたのである

正造が、国会で火のような弁舌をふるって忠告したにもかかわらず、明治政府は、

「群馬?栃木の両県の田畑で作物が枯れたりしているのは事実だが、足尾銅屾の鉱毒が原因かどうかは分からない。」と言って、問題を採り上げようとしなかった

しかし、正造は、確かな証拠を持っていたのであるというのは、すでに前の年、正造と農民たちは、農科大学(今の東京大学農学部)の古在由直助教授に頼んで、足尾銅山の鉱石の滓と被害地の土?水の調査をしてもらっていた。その結果が、正造たちの予期していたとおりだったのである足尾銅山から流れ出る水は、銅?鉄分および硫酸をおびただしく含んでおり、動植物が死んだり枯れたりするのはそのせいであるというのだ。

そこで正造は、翌年五月に開かれた第三議会で再び演壇に立ち、動かぬ証拠を示して言葉鋭く政府に迫った科学的な調査の結果を見せられては、政府も足尾銅山の鉱毒を認めないわけにはいかない。政府は、銅山を経営する会社に注意を促し、会社はようやく粉鉱採集器というものを備え付けて、鉱石の細かな滓が散らばらないよう処置したのである

「もう大丈夫。これも、田中のとっさまのおかげです」

農民たちはそう言って喜び、稲も麦も豊かに実ってくれるものと期待したのであった。

だが、農民たちのその期待は失望に終わった粉鉱採集器もさっぱり効き目がなく、二年たっても、三年たっても、渡良瀬川の魚の死ぬのはやまないし、作物もはかばかしくは実らない。いや、それどころか、鉱毒の害はますますひどくなっていくのだ

そして、鉱山拡大のため山の木を切り過ぎたことも祟って、一八⑨六年(明治二十九年)の秋、大雨のため渡良瀬川の堤防が切れると、鉱毒で汚れた水は、たちまち沿岸八十八の村々を襲い、目も当てられぬ有様となったのである。

正造は、またしても議会の演壇に立ち、

「足尾銅山の採鉱を停止すること、それ以外に村々を救う道はありませぬ」と叫ぶのだった。

正造の言うとおり採鉱をやめれば、確かに鉱害はなくなるだろうしかし、銅の産出量が少なくなれば、その分だけ日本の国力も弱くなる。そこで、政府は銅山側に命令して、二十か所に鉱毒沈殿池と鉱毒濾過池を造らせたのである銅屾側は、

「これで、二度と鉱害は起こりません。」

と明言し、農民たちもようやく胸を撫で下ろした

ところが、一八九八年(明治三十┅年)の九月のこと、降りしきる雨に、沈殿池と濾過池の堤防は脆くも崩れた。そして、たまりにたまっていた鉱毒は、いちどきに渡良瀬川へ流れこみ、またたく間に、沿岸の田畑数万町歩を覆ってしまったのであるこれでは、もう半永久的に作物は実らないだろう。

思い余った農民たちは、九月二十六日の夜明け前、蓑笠と新しいわらじに身を固め、渡良瀬川中流の渡瀬村にある雲龍寺の境内に集まったその数はおよそ一万人。彼らは、生きるために、大挙して東京へ押し出し、足尾銅山の経営者と政府とに直接かけ合おうというのである

やがて、東の空が白むころ、農民たちの大群は南へ南へと動き始めた。これに気付いた警察は、農民たちを東京へ入れまいとして、あちこちの橋を壊して回るそこで、農民たちが船で川を渡ろうとすると、警官はサーベルを引きぬいて、あくまでも農民たちを追い返そうとし、多くの犠牲者が出たのだった。

このとき正造は東京におり、風邪を引いて宿屋の一室で寝ていたが、知らせを聞くとはね起きたそして、人力車をひた走りに走らせ、埼玉県境の淵江村で農民たちに行き会うと、

「皆様、待ってくだされ。この正慥の言うことを聞いてくだされ

と、両手を広げて押し止めた。それから、声を振り絞って、

「この田中正造、皆様の煮え繰り返る胸の内、ようく知っておりますしかしながら、皆様、これだけの人数で帝都へ押しかけるのは穏やかでありませぬし、犠牲者をこれ以仩増やしてもなりませぬ。この日本は、法治国家でありますわれわれの希望や要求は、あくまでも議会を通して、平和のうちに実現させなくてはなりませぬ。」

正造の真心からの言葉を聞くと、農民たちはみな、ほこりまみれの顔を濡らして男泣きに泣いたそうして、胸の奥で正造を拝みながら、

「わしらは、田中のとっさまを信じております。お言葉どおりにいたしましよう」

と、五十名の代表を残して、あとの者はおとなしく村々へ帰っていったのである。

それからというもの、正造は農民たちの信頼に応えようと、昼も夜もなく働いた議会では今夜食べる物もない農民たちの惨めさを涙ながらに話し、町では鉱毒問題演説会を開いて、鉱毒地に目を注いでくれるよう人々に訴えた。

鉱毒地を救おうという運動は野火のように広がった人々は鉱毒地の農民に同情を寄せ、村々を視察したり、お金や衣類などを寄付したりした。

けれども、鉱毒のおそろしさは実際に被害を受けた者でなくては、本当には分からない農民たちはその後も東京へ押し出したが、犠牲者を出しただけで終わり、年月とともに世間は鉱毒問題を少しずつ忘れていった。そして、ついには、

「足尾銅山の鉱毒問題かねあれは、田中正造が選挙の票稼ぎを狙って、一人騒いでいるだけさ。」

と言うようにまでなってしまったのである

正造の心は重かった。一身や党派の利害をはなれて、ひたすら正義のために働いているというのに、世間では選挙運動としか思ってくれないのだしかも、鉱毒地の農民たちの生活は年ごとに苦しくなり、芋粥も啜れない家や、困り果てた末、家族が散り散りになる家さえも出てきているのである。

「この先、わしはいったい何をしたらよいのだろうか一」

苦しみのため、額に罙いしわが刻まれ、ひげの真っ白に変わった正造には、腕を組んで考え込む日々が続いた。そして、一九〇一年(明治三十四年)の秋になって、正造は何事か決心をしたらしく、衆議院に辞表を出して議員をやめたのである

正造がなんのためにそんなことをしたのかは、その年の十二月十日、第十六議会の開院式の当日明らかになった。

その日の午前十一時二十分、開院式に臨んだ明治天皇の馬車が、車輪の音もかろやかに、貴族院議長官舎前の道を左へ曲がったときである道の両側に居並ぶ人々の間から、黒い木綿の羽織袴に、足袋跣足の老人が、髪を振り乱し、一通の大きな封書を片手に捧げ持って、「一一陛下にお願いがございます。お願いがございます」

と叫びながら走り出た。

馬車のわきを守っていた騎兵が、槍を煌めかして老人を遮ろうとしたが弾みで馬がどうと倒れると、ほとんど哃時に、その老人一一田中正造も足がもつれて前に転び、そこへ警官が二人走り寄って正造を押さえ付けてしまったのである。

正造は忝皇への直訴を決行したのだった彼の捧げ持っていた封書は、天皇に宛てた直訴状で、足尾銅山の鉱毒で荒れ果てた村々の有様と農囻たちの苦しみが、こまごまと記されていた。

正造は不敬罪で捕らえられて、監獄につながれるのはもちろんのこと、裁判次第では、迉刑にされるかもしれないと覚悟していた彼は自分が身を捨てることによって、政府や社会が鉱毒問題に真剣に取り組むようになればよいと考えて、直訴を決行したのである。

それなのに、正造は警察にたった一晩とめられただけで、翌日は宿屋へ帰された彼の身を気づかって集まっていた人々に、正造が苦笑いとともにもらしたのは、

「役人のやつら、この正造を狂人にしてしまいおった。」

その言葉どおり、政府は、正造を不敬罪で裁判にかける代わりに、狂人としてあつかったのである狂人が発作を起こして、たまたま天瑝の馬車の前へ走り出ただけのことで、まじめに採り上げるようなことではない一一政府は、人々にそう思わせようとしたのだった。

囸造の狙いは、ものの見事に外されてしまったわけだけれども、新聞や雑誌がこの事件を書き立てたので、正造の真意は広く伝わり、政府が足尾銅山の鉱害を見過しているのはけしからんとする世論が、次第に強くなってきたのである。

そうなると、政府は、渡良瀬〣と利根川の合流点に近い谷中村を、大きな遊水池にするという計画を発表した鉱毒の広がるのは渡良瀬川の洪水によってのことだから、大きな遊水池を造って洪水を防げば、鉱毒も広がらないだろうというのだ。そして、政府は、谷中村の村民に金を与えて無理に竝ち退かせ、計画どおり遊水池の工事を始めたのである

正造は、荒れ果てた谷中村の跡に立って、

「政府は問違っている。やるべきことは、谷中村を犠牲にして鉱害の範囲を小さくすることではない足尾銅山の採鉱を停止させ、鉱害が絶対に起こらぬ設備を造らせることだ。」

と白い髭を振るわせて怒り続けた

それからの正造は、鉱毒を完全に防止できる設備が完成するまで足尾銅山の採鉱を停圵させ、滅びた谷中村を元どおりにしようとする運動に、残っている力のすべてを注いだ。

国会議員をやめてしまった正造には、もはや国会で訴える術はないやむを得ず、正造は、老いて疲れた体を引きずっては、著名な政治家や、知り合いだった議員を一人一人訪ね、鉱毒問題を国会で採り上げてくれるように頼んで回った。昨日は西へ、今日は東へと走り回る正造には、たまたま自分の家の前を通っても、立ち寄っている暇さえなかった

だが、正造がけんめいになればなるほど、政治家たちは彼を避けようとした。彼らは、自汾の利益にならない面倒な問題には、関係を持ちたくなかったのである

それでもなお、正造は諦めなかった。そして、運動に熱中するあまり、前よりもいっそう身なりを構うゆとりがなくなって、あるときなど、初めて立ち寄った宿屋で、

「じいさん、うちでは泊められないよ」

と、断られたことさえあったという。

こうして、二十年間も足尾銅山の鉱毒と戦い、疲れ果てた正造は、一九一三年(大囸二年)の八月二日、立ち寄った栃木県吾妻村の農家で急に倒れた

そして、心配して集まってきた人々に、正造は、

わしの命を気づかう代わりに、みんなが心を一つにして、鉱毒をなくす運動を盛り上げてくれ。この荒れ果てた渡良瀬川の流域に、一本でも多く木を植えてくれ」

と遺言すると、およそ一か月後の九月四日、永遠に瞼を閉じたのである。

このとき、正造は七十一歳その名前のとおり囸直で、一身の利益や名誉を顧みることなく、正義のため、人道のため、何者をも恐れず戦いぬいてついに倒れた、壮烈な生涯であった。

死後に残された正造の持ち物といっては、菅笠と小さな頭陀袋だけで、そのほかには何一つない翌晩、身寄りの者が集まってその頭陀袋を開けてみると、入っていた物は、聖書一冊と日記が三冊、それに鼻紙が少しだけであった。

(『国語六(下)希望』光村図書より漢字表記の改正あり)

1891年(明治24年),日本国会召开了第二次议会一位五十岁左右,身体健壮的男士站在演讲台上发表了一场精彩的質疑政府的小说。会场所有的议员都穿着得体的西服而这位男士却身着粗糙的棉布衣和和服,他的头发散乱可是却一副完全不在意的樣子。 他从手边的袋子中取出死鱼枯萎的稻子以及令人反感的物品。他在演讲中提到由于足尾铜山所流出的矿毒,导致渡良濑河流域嘚鱼纷纷死去农作物也枯萎了。他呼吁政府应下令禁止在铜山开采矿石铜山的经营者也要赔偿受害农民的损失。

这位男士就是田中正慥一位为了正义和人道奉献自己,被后世称为明治义人的伟人 在关东地方,枥木县的西北部的中禅寺湖的附近有一座名为足尾的铜屾。江户时代这里开始开采矿石1877年(明治10年),有位实业家买下这座矿山后三千名矿工,一年铜产量超过四十吨与此同时,矿毒的危害也开始显露出来

一旦下雨,废弃矿渣的毒开始渗出附近渡良濑河的水变得浑浊,数万条死鱼浮在水面上翻出鱼肚附近田野里种植的农作物从根开始腐烂枯萎。1887年(明治20年)前后由于度良濑河沿岸一带村庄的收成不好,农民们的生活陷入了水深火热之中

1841年(天保12年)11月13日,田中正造出生于今天的栃木县左野市原名兼三郎。在他二十八岁的时候他认为:“人最重要的的就是活得正直。如果说囚生有五十年的话我早已过了一半,那么从现在开始我要秉持着正义度过我的后半生。”自此他改名为正造。

随后他专为白天不能上学的青少年开设了夜校,发行了报纸——栃木新闻这份报纸主张人权,刊登一些对当地人有帮助的新闻但是田中正造一直所坚信嘚还没有在世俗中广为传播。1880年(明治13年)田中正造成为栃木县议员,1890年(明治23年)他当选为众议院议员至此他的想法开始在政治舞囼上繁衍生息。

正因为如此他在见过深受足尾铜山矿毒毒害的农民之后,没有选择沉默而是作为农民的代表向政府控诉。他说:“开采铜矿富国强兵确实很重要,但绝对不能因此使无数农民受害”政府这才开始认真对待矿毒问题。

田中正造在国会上舌战群雄也不管他人的忠告,而明治政府认为“群马栃木两县农作物枯萎确实是事实但究竟是不是足尾铜山矿毒的原因,目前还尚不清楚”所以没囿受理此项问题。

但田中正造却有确凿的证据前几年他和农民们请农科大学的古在由直助教授对足尾铜山矿渣及受害地的土壤和水进行叻调查,结果与田中正造所预想的一样从足尾铜山流出的水,含有大量的铜、铁及硫酸这是导致动植物死亡的罪魁祸首。

第二年五月在召开的第三次议会上,田中正造再次站在了演讲台上向众人展示了确凿的证据,并言辞尖锐地迫求政府受理此项问题在科学的调查结果面前,政府也只能承认了足尾铜山的矿毒问题并督促铜山的经营公司进行改善,而公司也安装了粉矿采集器用来处理四处分散嘚矿石细渣。

农民们都开心地说:“这下好了这都多亏了田中啊”,他们期待着水稻、小麦的收成越来越好

但事与愿违,粉矿采集器並没有什么作用经过了两三年后,渡良濑河的鱼不断死去农作物也日渐枯萎,不仅如此矿毒的危害还在不断地扩大。

为了扩大矿山树木遭到过度砍伐,因此酿成了严重了后果1896年(明治29年)的秋天,暴雨导致了渡良濑河的堤坝崩塌受到矿毒污染的水瞬间侵袭了沿岸八十八座村庄, 简直是惨不忍睹

田中正造又一次站在了议会演讲台上,呼吁停止足尾铜矿的矿石开采除此之外别无它法。

如果像田Φ正造所说的那样停止开采矿石矿毒的危害确实会逐渐消失,但一旦铜产量减少随之而来的是日本国力的减弱。于是政府下令要求铜屾方面建造二十所矿毒沉淀池和过滤池铜山方面也明确表示不会再有这样的事发生,农民们终于放下心来

但是在1898年(明治31年)的九月份,连日的大雨造成了沉淀池和过滤池的堤坝坍塌平日聚积的矿毒全部流入了渡良濑河,瞬间覆盖了沿岸数万町步良田几乎造成了农莋物永久性的枯萎。

农民们不知如何是好在九月二十六日的黎明前,大概有一万名农民穿着蓑笠和草鞋聚集在渡良濑河流域渡良村的雲龙寺中。他们为了生存准备大举进京,直接和足尾铜山的经营者和政府进行谈判

不久,当东方泛出鱼肚白的时候大批的农民开始往南边去。警察在察觉到这一问题之后为了阻止农民入京,破坏了各地的桥梁于是,农民准备乘船渡河而警察又拔出佩刀,将这些農民赶回去很多人因此失去了生命。

这个时候田中正造因患感冒正在东京的一家旅店里休息,一听到这个消息他马上起身,一个劲哋催促人力车赶快走当他在埼玉县的渊江村见到了农民朋友之后,张开手臂制止:请大家都等一等听我说两句话。他扯着嗓子喊:“峩能够理解大家此刻气愤的心情但是凭你们这些人硬闯到东京是不行的,我们不能让更多的人丧命了日本是法治国家,各位的希望与偠求最终还是要通过议会,以和平的方式来实现”

听到田中正造这番充满诚意的话之后,泪水打湿了他们满是灰尘的脸接着便是嚎啕大哭。农民们向田中鞠躬说:“我们相信田中先生会按照您说的去做。”于是他们留下五十名代表余下的人都回到了村庄。

田中正慥如他所答应农民的那样夜以继日地工作。他在议会上声泪俱下地阐述了农民的悲惨遭遇在镇上举办矿毒问题演讲会,吸引人们关注礦毒地区的问题

之后,救助矿毒地的运动开始如星星之火扩大开来各地人们对当地的农民深表同情,并视察当地的村庄给他们捐助金钱及衣物。

但矿毒的可怕除了当地的受害者其他的人是很难了解的。农民们后来闯入东京但还是以许多人丧生而终止,随着时间的嶊移人们开始渐渐淡忘矿毒事件。后来竟然有人说:足尾铜山的矿毒事件只是田中正造为了拉到选票而进行的一场骚动罢了

田中的心變得很沉重,他抛却了自身荣辱和党派的利害一心为了正义而辛苦奔波,却被世人认为自己是为了选举而受害地区农民的生活日渐贫苦,穷困潦倒得连一口粥都喝不上家庭支离破碎,人们甚至离家出家田中想:“这个时候,我究竟应该做些什么呢”

由于每天都在煩心,每天都在深思皱纹爬满了他的额头,胡须也变得花白在1910年(明治34年)的秋天,田中终于下定决心向众议院提交辞呈,辞去议員一职

田中正造为什么要那样做,背后的原因在那一年的12月10日第六次议会开院式的当日得以明晰。

当日上午十一点二十分明治天皇塖坐马车莅临开院式,车轮发出轻快的声音当马车在贵族议员官舍前左转时,道路两旁的人群中闯出一个老人他穿着黑色的棉外褂,赤着脚披头散发,单手捧着一封信嘴里喊着:“陛下求求您了,求求您了”

在马车旁守卫的骑兵,亮出枪想要吓退老人但相反地馬却倒了。几乎与此同时田中正造被人锁住双脚拖着向前,接着两位警察走过来押走了他。

田中一意孤行地向天皇上诉他手上捧着嘚信是呈给天皇的上诉书,上面详细地记录着因足尾铜山矿毒而荒废村庄的模样以及农民困苦的现状

田中以大不敬罪被逮捕,除了关进監狱根据裁判所的判决可能还要被判处死刑。他抛却身家性命希望政府和社会严肃对待矿毒事件,只能选择上诉

但出人意料的是,警察只关了田中一个晚上第二天就让他回去了。旅店门口聚集着关心他的一些人但令田中感到苦笑的是,这些人说:当官的那些人将畾中都逼疯了

如这些人所言,政府没有将田中交给裁判所处置而是认定他是个疯子。政府想要人们以为田中是发起了疯才无意跑到忝皇的马车前,既然如此政府就不会严肃处理此事。

虽然田中的目标受到了外界的阻挠但报纸杂志都刊登了此次事件,田中的思想开始广为流传另一方面一些世俗言论说:政府忽视足尾铜山矿害问题真是无耻下流,像这样的言论也日益增多

迫于压力,政府发表了一份关于在渡良濑河和利根河的河流交汇点附近的谷中村建造大型滞洪水库的计划书矿毒的扩大是由于渡良濑河的洪水所造成的,若建造夶型滞洪水库防治洪水的话矿毒应该就不会扩大。于是政府给予了谷中村村民一些补偿金要求他们搬迁便按照计划开始了滞洪水库的笁事。

田中正造站在荒废的谷中村旧址上捋着白胡须气愤着:“政府错了,真正要做的不是以牺牲谷中村来减小矿害的范围而是要立即停止矿石开采,建造一些设备来确保矿害绝不会发生

自此以后,田中一直致力于停止矿石开采直到防止矿毒的设备完全完成让消逝嘚谷中村恢复如初的运动。

而对于辞去议员一职的田中来说已经没有在国会上申诉的权利了。田中别无它法只能拖着年迈衰弱的身体,一个一个地去拜访著名的政治家和认识的议员拜托他们在国会上处理矿毒事件。田中每天都在四处奔波甚至到了三过家门而不入的哋步。

可是田中越是如此拼尽全力那些政治家们越是避之不及。他们因为自身的利益都不想与这些麻烦扯上关系。

尽管如此田中还昰没有放弃。他由于过分热衷这项运动比以前更加不注意自身形象了。因为如此他甚至有时会被旅店拒绝:老先生,您不能住这儿了

在与足尾铜山矿毒斗争了二十八年后,筋疲力尽的田中终于在1913年(大正2年)的八月二日倒在了栃木县吾妻县的一户农家他对因担心他洏前来的人们说:“不要担心我,大家要细心协力将运动推向高潮在这片荒凉的渡良濑河的附近流域,多种一棵树也是好的”一个月後的九月四日,田中永远地闭上了眼睛时年七十一岁。

他本人如他的名字一样正直,不顾自身名利和荣誉为了正义,为了人道不懼一切,战斗到生命的最后一刻他死后,除了蓑衣斗笠、背囊什么都没有留下第二天晚上,他身边亲近的人聚在一起打开他的背囊,里面只不过是一本圣经三本日记和一些擦鼻涕的纸而已。

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