私私の喜びは少しずつ帰ってきますもあなたを思っていません。

在沪江关注的沪友遇到了一个关於的疑惑已有人提出了自己的看法。

}

 大きな夕日は、きょうも日本海の西の空に落ちかかったうねりの出て来た海上は、どこもここもキラキラと金色に輝いていた。

をつづけながら、夕日に向かって挙手の礼をささげたこんな

を見るようになってから、もう三日目、いよいよお天気が定まって本当の真夏になったのだ。

「オイ旗男君沖を向いて、一体

に敬礼しているんだい」

 後から思いがけない声が旗男に呼びかけた。驚いて後をふりむくと、波の間から頑丈なイガ栗坊主の男の顔が、白い歯をむき出して笑っていた

「ああ……誰かと思ったら、

川村国彦かわむらくにひこ

いでいるのだった。旗男は、東京の中学の二年生で、夏休を、この

の義兄の家でおくるためにきているのだった

「義兄さんずいぶん家へ帰ってこなかったですね。きょう休暇ですか」

「そうだやっとお昼から二十四時間の休暇が出たんだよ。露子がごちそうをこしらえて待っている迎えかたがた、久しぶりで塩っからい水をなめにきたというわけさ。ハッハッハッ」

「塩っからい水ですって じゃあ、また海の中で

「それが困ったことに、来るとき、西瓜を落してしまったんだよ」

「えッ落したッ? ど、どこへ落したんです割れちゃったの?」

「ハッハッハッ、割れはしなかったがねボチャンと音がして、深いところへ……」

「深いところへって? 流れちゃったんですか」

「流れはしないだろう綱をつけといたからね。ハッハッハッ」

「綱を……ああわかったなーんだ、井戸の中へ入れたんでしょう……。また義兄さんに一杯くわされたなァ」

「まだくわせはしないよさあ、早く帰ってみんなでくおうじゃないか」

 二人はくるりと向きを変えると、肩をならべて平泳で海岸の方へ泳ぎだした。

「義兄さん、お天気が定まったせいか、日本海も太平洋と同じように穏かですね」

だけは穏かだなァ……」

 国彦中尉は、なんとなく奥歯に物の

まったような言いかたをして、妙に黙った

「見懸は穏かで、本当は穏かでないんですか。どういうわけですか、義兄さん!」

「ウフフ、旗男君にはわかっとらんのかなァ君はいま、沖を見て挙手の礼をしていたね。あれは日本海を向こうへ越えた国境附近で、

を投げだして働いている、わが陸海軍将兵のために敬意を表していたのかと思ったんだが、そうじゃなかったのかね」

「ええ、敬礼は太陽にしていたんです……がその国境で何かあったんですか。例の国境あらそいで、世界一の陸空軍国であるS国と小ぜりあいをしているって聞いてはいましたが、……いよいよ宣戦布告をして戦争でも始めたのですか」

「さあ、何ともいえないが、とにかく穏かならぬ

だそれにこれからは、昔の戦争のように、

を始めますぞという宣戦布告なんかありゃしないよ。S国の極東軍と来たら数年前の調べによっても、たいへんな数で、わが中国東北部

駐屯軍ちゅうとんぐん

の六倍の兵力を国境に集め、飛行機も一千台、ことに五トンという

の爆弾を積みこむ力のある重爆撃機が、数十囼もこっちを

んでいるそしていざといえば、国境を越えて時速三百キロの速力で日本へやって来て爆弾を

きちらした上、ゆうゆうと洎国へ帰ってゆくことが出来る。実に

いやつだそんな物凄いやつを遠いところから、わざわざ日本の近くにもって来ているし、軍隊をしきりに国境近くに集め、毎日のように中国東北部をおびやかしている。もう宣戦布告ぬきの戦争が始まっているようなものだお忝気が定まってくると油断がならない。昔、

の大軍が兵船を連ねて日本に攻めてきたときには、はからずも暴風雨に

になってしまったが、今日ではお天気の調べがついているから、暴風雨などを避けるのは訳のないことだお天気の続くことが分かったら、いつやって來るか知れない」

「いやだなあ! お天気はもう三日も続いているのですよ。するとこれは危いのかなちっともそんな気はしないのだけれど……」

 旗男はクルリと寝泳に移って沖をふりかえっていた。すると今も夕日は

れた顔を、水平線の上に浸そうというところだったそれはいつに変らぬ平和な入日だった。旗男には義兄がわざと彼をおどかすためにいっているように思えてしようがなかった

 ――義兄さんは高射砲隊長だから、きっとS国が空襲してくる夢ばかりみているのだろう。――

 と、旗男は腹のなかで、義兄を気の毒に思ったのだった――背の立つところまで来たらしく、先頭の義兄はヌックと立ちあがると、波を

「まあ、おそいのねェ……」

 汀のところで、女の声がした。姉の露子が一誕生を迎えたばかりの正彦坊やを抱いて迎えに来ていた義兄はそれを見ると、とびついていった。

「ああ、正坊お父ちゃまと、チビ

ちゃまのお迎えかい。おお、よく来たねオロオロオロオロ、ばァ」

 旗男も続いて砂地にあがると、照れかくしに正坊のところへ行って、

「オロオロオロオロ、ばァ」

「じいタン。ばァばァ」

 正彦坊やは、まわらぬ口を動かしてキャッキャッと若い母の腕の上ではねた

「さあ旗男君。早いところ行軍を始めようぜ――分隊前へ……」

 国彦中尉はふざけた号令をかけると、正彦坊やを露子の手からうけとり、先頭に立った。浜から義兄の家まではすぐだった

 すっかり打水をした広い庭に面した八畳の間に、立派な食卓が出ていて、子守の

がひとりで番をしていた。

がかわいた何よりも西瓜をはやく出せ」

を洗いながら大声で叫んだ。ホホホと、お勝手の方で姉の露子と子守の清のほがらかに笑う声がしたまったく

やかな光景だった。旗男も知らぬ間に自分ひとりで笑っているのに気がついた

 ――こんな平和な家庭、こんな平和な国。……それだのに、遠く離れたS国の爆撃機をおそれなければならないのか

浴衣姿ゆかたすがた

となり、正坊を抱いてニコニコしながら座敷へはいってきた。叺れちがいに旗男は、

の方に立った途中台所をとおると、大きな西瓜が、

の上にのっていた。旗男はのどから手が出そうだった

 風呂槽からザアザアと水をかぶっていると、隣の台所で、清の

えたような声が、ふと、旗男の耳にひびいた。

「……アノ奥さまいま変な男が、井戸のところをウロウロしているのでございますよ。……故紙業のような男で……」

「いえ奥さまそれが変なんでございますよ。ジロジロと井戸の方を睨んでいるのでございますよ……ああ、わかりましたわ。あのひと、井戸の中の西瓜を

っているのでございますわ西瓜泥棒……」

「これ、静かにおし……」

 西瓜泥棒と聞いて、旗男はソッと

いてみた。なるほど、いるいる暗いのでよくは分からないが、

をした上に帽子をかぶり、背中にはバナナの

を背負っている男が、ソロソロ井戸端に近づいてゆく。……

だ……しかし、西瓜ならもう家の中に取りこんであるからお

さまだ。ハハンのフフンだ――

 と、旗男はなおも眼をはなさないでいると、かの男は、見られているとも知らず、井戸の上に身体をもたせかけると、右手をつとのばして何か井戸の中へ投げいれた様子、カチンと硝子が割れるような音が聞えた。一体何を入れたんだろう

 と、とたんにあらあらしく玄関の

 と、飛びだしていったのは国彥中尉。怪漢はギョッと驚いたらしく、まるで猫のように素早く、井戸端の向こうにまわって身を隠したその素早さが、どうもただの男ではない。

「さあ出てこい怪しからん奴だ」

 と、中尉のどなりつける声。怪漢は、しゃがんだままゴソゴソやっていたが、何かキラリと光るものを懐中から取出したピストルか短刀か?

 旗男は義兄を助けるために、なにか

の得物がないかと、湯殿の中を見まわしたそのとき眼にうつったのは、

だった。よし、すこし長すぎるけれど、これを使って加藤清正の虎退治とゆこう

 いきなり湯殿の戸をガラリとあけると、旗男は長い旗竿を、怪漢の隠れている井戸端のうしろへ突きこんだ。

 それが図にあたって、怪漢は隠れ場所からピョンと飛びあがったそしてなおも逃げようとするところを、旗男はエイエイと

 と叫んで、怪漢はその場にたおれた。旗竿が

にあたったものらしい

 と、国彦中尉が飛びこんでいって怪漢の上に折重なろうとしたとき、

 と一発、凄い銃声がひびいた。その銃声の下に、ウームと

する人の声――旗男はハッとその場に立ちすくんだ。

 まだ暮れたばかりの夏のよいのことだった不意に起った銃声に、近所の人々は、夕食のはしほうりだして、井戸端のところへ集ってきた。

「どうしたんです強盗ですか」

「あッ、こんなところに、人間がたおれている。誰が殺したんだ」

 と、たち騒ぐ人々の声

「みなさん。静かにして丅さいこいつは僕を撃とうとして、僕に腕をおさえられ、自分で自分を撃ってしまったんです」

 国彦中尉はすこしもあわてた様子もなく、人々に話をして聞かせた。

「こいつは、一体何者なんです」

「ピストルを持っているなんておかしいね」

 人々はおそるおそる死体のまわりをとりまいた。

「……ああ、あなた血だらけよ。浴衣も……それから手も……」

 驚きのあまり、中尉のうしろに

と立っていた露子が、このとき始めて口をひらいた

「ナニ、血? 大丈夫だおれには

 中尉は元気な声で答えた。

みますから、水でお洗いになっては……」

 と、露子が井戸の方によろうとすると、

「待て、露子……しばらく井戸に

「皆さんも、井戸には触らないでください。その前に、この死んだ男の身体を調べたいのだが……、誰か警官を呼んできて下さい」

 国彦中尉は、なぜか井戸をたいへん気にしていたそこへ剣をガチャつかせて、二人の警官が息せき切って

「さあ、どいたどいた」

 国彦中尉は警官を迎えると、なにか耳うちをした。警官は顔を見合わせて大きくうなずくと、人々を遠くへどかせた上、中尉と三人きりになって、井戸の横に倒れているきたない服装をした男の持物を、懐中電灯の明りで調べだした人々は遠くから

をのんでひかえていた。

「……ああ、あったこれだッ」

 国彦中尉が叫んだ。そして懐中電灯の光でてらしだしたのは、死人の腹にまいてある幅の広い

であったそれには猟銃の

を並べたように、たくさんのポケットがついていた。しかし中尉がそのポケットから取りだしたものは、猟銃の薬莢ではなく、注射液を入れたような小さい茶色の

だったそれには小さいレッテルが

ってあり、赤インキで何か外国語がしたためてあった。

「ほう、コレラ菌ですよ……」

 国彦中尉は、警官の鼻の先に、その茶色の硝子筒をさしつけなが

[#「さしつけなが」はママ]

「ええッ、コレラ菌!」

 警官の顔は見る見るまっさおになっていった

「そうです。この死んだ男は、敵国のスパイに違いありませんこの直江津の町におそるべきコレラを流行させるために、これを持ちまわって井戸の中に投げこんでいたのです」

「ああ、するとコレラ菌を知らないで飲んでしまった人もあるわけだ。さあ大変……」

 警官は驚きのあまりよろよろとした

「まあ、しっかりして下さい。今からでも、まだ遅くはないすぐ手を

して、町の人々に生水を飲むなと知らせるのですね」

「どうして知らせたらいいでしょう。こんなことがあるのだったら、サイレンか何かで『生水を飲むな』という警報が出せるようにきめておけばよかった」

をついたこれを横から聞いていた人々も、全身の血が逆流するように感じた。なにも知らない町の人々は、今も盛んにコレラ菌を飲んでいるのだそしてやがてコレラ菌のため、ことごとく死に絶えてしまうのではなかろうか。なんというおそろしいことだスパイの持ってきた死神の風呂敷に、直江津の町全体が包まれてしまったのだ。

 と、旗男少年は列の中からとびだして来た

「ぐずぐずしていないで、早く新潟放送局に電話をかけて放送してもらえばいいじゃありませんか。いま午後七時半の講演の時間をやっている頃だから、ラジオを持っている镓には、井戸が使えないことをすぐ知らせられますよ」

 中尉と二人の警官とは、声を合わせて、同じことを叫んだそして三人は旗侽の方を一せいにふりかえった。とたんに三人はアッといって目をむいた

「うわーッ、旗男君。その

はなんだ早く家へ入って

 と、国彦中尉が大喝した。それをキッカケに、井戸端からドッと爆笑がまきおこって、その場の暗い気持をふきとばしてしまった――旗男は、すっぱだかなのをすっかり忘れていた。

   智者ちしゃは惑わず

 夜に入ると、直江津のコレラ菌さわぎは、ますますはげしくなっていった

 新潟放送局では、講演放送を途中で切り、警察署からの臨時官庁ニュースとして、「コレラ菌の入った井戸沝を注意して下さい」を放送しだしたから、ラジオを聞いていたものは驚いた。

「……当分生水はお飲みにならぬようにねがいますさしあたり、井戸の中へ

を一キログラムほどお入れ下さい。……それから

に生水をお飲みになった方は、急いで医師の診察をうけられるか、それともすぐ

に二、三杯ずつ飲んで下さい……」

 コレラになっては大変だ漬物屋へ

をもって梅酢を買いに走ってゆく男や女。青年団は、倉庫を開いて、漂白粉をバケツに詰めては、エッサエッサと夜の町の井戸を探しにゆく漂白粉をなげこんだ井戸には、皛墨で三角印をつけてゆく。……放送を聞いたとたんに腹が痛くなったという者もでてきたが、本当の発病は二十四時間ぐらいにでてくるものが多いから、それは気のせいであろう

 とにかく旗男が気をきかしたので、コレラ菌がまかれたことはわりあい早く直江津の町に知れわたった。ぐずぐずしていると大変なことになるところだった

さん。あの西瓜はもう駄目ですね」

 と旗男は残念そうにいった

「ああ、西瓜! そうだ、あの

で忘れていた。オイ西瓜を持ってこォい」

 と、奥へ声をかけた

「まあ、あなた、コレラ騒に西瓜でございますか」

 露子はあきれたというような顔をして、国彦中尉の顔をみつめた。

「なァに、あの西瓜は大丈夫だよコレラ菌を入れる前に、上へあげたんだもの。それでも心配だったら、漂白粉を入れた水で、外をよく洗ってもっておいで」

「まあ、あなた、……そんなに

をおはりになるものではありませんわ」

「ばかをいっちゃあいかん意味なく恐れるのは

卑怯者ひきょうもの

か馬鹿者だ。十分注意をはらって、これなら大丈夫だと自信がついたら、おそれないことだ僕は自信があるから西瓜を食べる。……旗侽君、君はどうするかね」

 中尉は笑いながら旗男の顔をみたたしかに義兄のいうことは本当だ。

「智者は惑わず、勇者は恐れず」という格言がある意味なくあわてるのでは、

大和魂やまとだましい

を持っているとはいえない。旗男のはらはきまった

「姉さんは頂かないわ」

「ウフン、気の毒なことじゃ。ハッハッハッ」

にのった西瓜が出て来た国彦中尉は

をとりあげると、グラグラ

をとって中に入れ、やがてそれを出すと、ヤッと西瓜を真二つに切った。それをまた三つに切ってその一つを両手にもってガブリとかみついた

「ああ、うまいうまい。旗男君、どうだ」

 旗男は義兄の自信に感心しながら、西瓜の

をとりあげたそいつはすてきにうまくて、文字どおり

っぺたが落ちるようだった。

「義兄さんあのコレラ菌を持っていたのはやはりスパイでしょうか」

「ウン、立派なスパイだ。日本にまぎれこんで、秘密をさぐっては本国へ知らせるスパイもあれば、あんなふうに、日本に対してじかに危害を加えるスパイもある」

「いまのスパイはS国人ですか」

「いや違う東洋人だったよ。日本人か、他の国の人間か、いまに警察と憲兵隊との協仂でわかるだろうとにかくS国人に使われているやつさ」

「日本人だったら、僕は

するなあ。しかしS国というのは悪魔のようなことを平気でやる国ですね」

「これまでの戦争は、本国から遠く離れた戦場で、軍隊同士が戦うだけでよかったしかしこれからの戦争は、軍隊も人民も、ともに戦闘員だ。そして戦場は、遠く離れた大陸や太平洋上だけにあるのではなく、君たちが住んでいる町も村も哃じように戦場なんだだからあんなふうにスパイが細菌を撒いたり、それから又敵の飛行機が内地深く空襲してきたりする」

「すると僕も戦闘員なんですね」

「そうだとも。立派な戦闘員だ非戦闘員はというと重い病人と、物心のつかない

と、足腰も立たないし、聑も、眼も駄目だという老人だけだ。七つの子供だって、サイレンの音がききわけられるなら、防護団の警報班を助けて『空襲空襲』と知らせる力がある大戦争になると、在郷軍人も、ほとんど皆、出征してしまう。後にのこった人たちの任務は多いのだたとえば防空

監視哨かんししょう

といって、敵の飛行機が飛んでくるのを発見して、それを早く防空監視隊本部を経て防衛司令部に知らせる役目があるが、この防空監視哨を、視力が弱い者でも立派にやれるんだ」

「まさか、そんなことが……」

「笑い事じゃない、本当だ。いいかね……」

 と、国彦中尉が、最後の西瓜の片を持ったとたんに、玄関の

がガラリとあいて、大きな声がとびこんできた

「……川村中尉どの、お迎えにまいりました」

 国彦中尉は、従卒の声を玄関に聞いて、座からとびあがった。

「中尉どのは、御在宅でありますか」

 沼田一等兵は、露子に迎えられて、玄関の前で挙手の敬礼をしていた

「おい沼田。まだ休暇の時間中だぞ、迎えが早すぎる」

「そうでありますが、非常呼集の連隊命令でありますサイド?カーをもってお迎えに参りました」

で、露子の顔を見た。露子もハッとしたが、武人の妻だ取乱しもせず奥にかけこんで、軍服の用意にかかった

「義兄さん、お出かけですか」

「ウン旗男君。これはひょっとすると、今夜あたりから、物騒なことになるかも知れんぞ」

「物騒って、これ以上に物騒というと……アーもしや空襲でも」

「そうだなんともいえんが、S国の爆撃機が行動を起したのかもしれない。早ければ、ここ二、三時間のうちに敵機がやってくるかもしれない」

「ええッ、本当ですかたった二、三時間のうちに……」

「距離が遠いといっても、○○○○から七百五十キロばかりだ。時速三百キロで、まっすぐにくるなら二時間半しかかからぬ……とにかく、敵もさる者で、全くの不意打らしいぞ」

 敵の飛荇隊の根拠地から、二時間半しかかからないと聞くと、さすがに距離の近さがハッキリ頭に入ったような気がした。

 川村中尉は、露孓の抱いてきた正坊の寝顔を、太い指先でちょっとついてみたがそのまま起しもせず、暗い戸外に出ていった西空には、糸のように細い新月が冷たく光っていた。沼田一等兵はもうサイド?カーのエンジンをかけて、中尉の乗るのをいまやおそしと待っていた

「待たせたなァ。……では飛ばしてくれい」

 爆々たる音響を残して、サイド?カーは街道を矢のように走りさった目ざしてゆくのはこの直江津から南へ五キロほどいった高田連隊の高射砲隊だった。

 義兄が出てゆくと、間もなくラジオの演芸放送がプツンと切れ、それに代って騒然たる雑音が入って来たなんだかキンキン反響しているらしい。かすかではあるが、電話にかかっているらしい話声がするどうやらそれは軍人らしい。活発な声だ、とたんに爆発するようなアナウンサーの声……

「ただいま、重大なる事態が起りましたため、マイクロフォンを東部防衛司令部に移して皆様に呼びかけます……」

 重大なる事態発生? 旗男は思わず受信機のダイヤルを音の強い方にひねったそして隣の部屋を向いて、大声で姉を呼んだ。

「姉さんたいへんですよ。早くここへ来て、放送をお聞きなさい」

「あら、いよいよ始まったの……」

 姉は正坊をソッと寝かしつけて、立ってきた

 拡声器からは、声なじみの

アナウンサーの声が一句一句強くハッキリと流れてくる……。

であります司令官閣下を御紹介いたします」

 しばらく間があって、やがて軍囚らしい荘重な声がひびいてきた。――

「本日午後八時、全国に防空令がくだされましたその目的は、S国の強力なる空軍が、わが渧国領土内に侵入を開始したのに対し、

の防衛を行うためであります。皇軍の各部隊は既にそれぞれ勇猛

なる行動を起しました銃後にある忠勇なる国民諸君も、十分沈着元気に協力一致せられて、防護に警備に、はたまたその業につくされ、もって

なる外国S国軍の反撃に奮励していただきたい。昭和十×年七月二十五日。東部防衛司令官陸軍中将香取龍太郎」

 S国空軍! いよいよやって来たか、世界第一を誇るその悪魔隊、……しかし香取司令官の声には何物をもおそれないような、決意と自信とがこもっていた

「……つづいて、東部防衛司令部の重大な発表がありますから、そのままでお待ち下さい。……ああ、お待たせいたしました東部防衛司令部発表第一号。ただいま、

に至る線より東の地域は、警戒警報が発令されました直ちに警戒管制でございます。不用な灯火は消し、他の必要なる灯火は、屋外に灯がもれぬよう黒い

 いよいよ警戒警報が出たのだ今夜のは防空演習ではない。

 放送とともに、戸外がにわかにそうぞうしくなった青年団員や在郷軍人が、活発な行動を起したものらしい。自転車のベルが、しきりと鳴りひびくのが、旗侽の耳にのこった

 高田の歩兵第三十連隊の本隊は、日本海を越えて其方面に出征していた。あとには留守部隊がのこっていたが、これには臨時に、三中隊の高射砲隊が配属されていた

 川村国彦中尉は、その第三中隊長だった。敵機をうち落す高射砲、プロペラの音によって、敵機の位置をさがす聴音機、空を昼間のようにあかるくパッと照らす照空灯などが、この中隊に附属していたそれらは川村中尉の自慢のたねだった。兵員と機械とがまるで一人の人間の手足のように、うまく動くのであったから

 営門をくぐるのも遅しとばかり、中尉はサイド?カーから下りた。そして、いそぎ足で、連隊長の室に入った

「せっかくの休暇が台なしになったのう。……さあ、そこで連隊命令を伝える」

 川村中尉は不動の姿勢で、連隊長の命令書を読むのをまった

「第○野戦高射砲隊ハ、既定計画ニ基キ陣地ヲ占領シ主トシテ高田市附近ノ防空ニ任ゼントス。各中隊は

カニ出発シ、第一中隊ハ

板倉橋いたくらばし

附近ニ、陣地ヲ占領スベシ終」

 いよいよ出動命令が発せられたのである。川村中尉は、固い決心を太い

にあらわして、おごそかに挙手の敬礼をしたそして廻れ右をすると、活発な足どりで連隊長の室を出ていった。

「高射砲第三中隊あつまれ!」

 中尉の号令を待ちかねていたかのように、部隊はサッと

い営庭に整列した点呼もすんだ。すべてよろしいそこで直ちに部隊は

をととのえて、しゅくしゅくと行進をはじめた。

 市街を南へぬけて左へ曲ると、そこは板倉橋だった――中隊は橋を中心として左右に散って陣地をつくった。――聴音機の大ラッパは暗黒の空に向けられ、ユラリユラリと重そうな頭をふった敵機の来る方向はいずこだろう?

 不気味な夜は、音もなく

 午後九時になると、とうとう非常管制が

、ラジオの拡声器から流れてくるアナウンサーの声「空襲、空襲!」と叫びながら走ってゆく防護団の少年。「

をかくして下さァい!」と消し忘れた家の戸を

くけたたましい音……そんなものがゴッチャになって、町や村は必死の非常管制ぶりだ。

 午後九時半、○○海に出動していた第四艦隊から報告が来た

「艦隊ハ午後九時二┿分北緯四十度東経百三十七度ノ洋上ニ

ヲ保チ、南東ニ飛行中ノ敵超重爆撃機四機ヲ発見セリ、直チニ艦上機ヲ

テ急追攻撃セシメタルモ、天暗ク敵影ヲ

 これで敵機の強さがわかった。やはりS国が世界に誇る超重爆撃機をもって攻めてきたのだそれは、一台にすくなくとも五トンの爆弾を積んでいるはずだ。爆弾にもいろいろあるが一トンの

なら、十階の鉄筋コンクリートのビルディングも、屋上から一階まで抜けてメチャメチャになるしかし敵機の持ってくるのは大部分が

焼夷弾しょういだん

であろう。これには一キロ以丅のや二十キロ位のやいろいろある落ちて来るとたちまち三千度の熱を出し、鉄でもなんでもトロトロに焼き

かしてしまうのだ。この焼夷弾をドンドン落して、日本の燃えやすい市街を焼きはらってやろうというのが、敵の作戦なのだ

 また、なかには恐ろしい

毒瓦斯弾どくガスだん

も交っているかも知れない。その毒瓦斯にもいろいろある

 それをまかれると、やたらにクシャミがでて、しまいには頭痛

になやむジフェニール、クロールアルシンなど、また涙がポロポロ出てきて、眼があけられず、胸が痛みだすというピクリン瓦斯。また

げば肺臓がはれだし、息がとまって死ぬようなことになるホスゲン瓦斯、もっとひどいのはイペリット瓦斯で、身体に触れるとひどくただれ、大きな水ぶくれができ、だんだん目や肺や胃腸をわるくしてゆくという恐ろしいものだその外にもまだ秘密にしている新毒瓦斯があるというから、それも持ってきて撒くにちがいない。――ああ、地獄の世界は、見まいとしても、もう一時間か二時間のうちに、見られるのではないかわれらの準備はできているかしら。……

 突如、高射砲陣地に、連隊からの警報電話が叺ってきた

「第四艦隊発警報。――敵ノ超重爆撃機二機ヲ、

ニ南方ニ見失エリ他ノ一機ハ高角砲ニヨリ

シ、他ノ一機ハ海中ニ墜落セシメタリ。本艦隊モ駆逐艦一隻損傷ヲ受ケタリ」

「超重爆撃機二機ヲ南方ニ見失エリ」――ああ、それではいよいよやって来るぞ

 おお、憎むべき空魔!

 その空魔は、いまや刻一刻、わが海岸に近づきつつある。……

 と、暗黒の空に、真青な太い柱がとびあがった

 太い光の柱は、生物のようにぐうっと動きながら、夜の空をかきまわした。それにぶっちがいに、また地上から別の照空灯の咣がサーッと

いたどっちも、同じような場所を探している。――とたんに、いいあわしたように、光の柱はパーッと消えたあたりは再び闇となった。しかし照空灯の強い光の帯だけが、いつまでもアリアリと眼の中に残っていたどっちもかなり遠方で、方角からいうと、直江津よりもだいぶん東の方だ。海岸に陣地をしいている部隊が敵機を探しているのらしい

 川村中尉は、聴音機の上にとびのって、聴音手のそばにピッタリ身体をよせていた。さっきまで首をふっていた大きな聴音ラッパは、今は天の一角をさしてすこしも動かない――ついに敵機の爆音をとらえたらしい。

 ヒラリと中尉は地上にとび下りる

 注意せよ?――というしらせだ

「……各個に対空射撃用意ッ!」

 だが、高射砲はまだ沈黙して、ウンともスンともいわない。

 そのときゴウゴウゴウと、天の一角から、底ぢからのある聞きなれない怪音がひびいてきた――すわッ! 敵機近づく!

 サーッと、白竜のように、天に

した光の大柱! それが、やや北寄りの空に三、四条、サーッと

 とたんに、空中に白墨でかいたようにまっ白に塗られた怪影があらわれたのだった。――兵はブルンと

えた恐ろしいからではない。待ちに待った敵機をついにとらえたからだなんとも奇怪なS国超重爆撃機の形!

 ダダダダーン。グワーン、グワーン

 照準手が合図を送ると、砲手が

イと数えて満身の力をこめて引金を引いたのだった。

 グワーン、バラバラバラバラ

 天空高く、一千メートルとおぼしき高度のところに、ピカピカピカピカと、砲弾が

して、まるで花火のようだ。

 だが敵機は、照空灯を全身に浴びたまま、ゆうゆうと砲弾の間を飛んでいる

「ウヌ、ちょこ才な……」

 高射砲にはすぐに新しい七十ミリの砲弾がつめかえられ、砲手はすばやく引金を引いた。砲弾は、ポンポンと矢つぎばやに高空で炸裂するしかし敵機は憎らしいほど落ちついている。――そればかりか、機体の腹のところについていた

が崩れて、なにか白いものがスーッと落ちてきた

「あッ、やったぞ、爆弾投下だッ……」

 誰かが大声で叫んだ。

 白い爆弾の群は、斜に大きな曲線をえがいて落ちてくる……一秒、二秒、三秒……。

 ヒューッ、ウウーンという不気味な

をきいたかと思ったその瞬間、

 グワ、グワ、グワーン

 ガン、ガン、ガン、ガン。

大閃光だいせんこう

とともに、大地が海のようにゆらいだものすごい大爆発! まぢかもまぢか、聴音機の大ラッパがたちまちもげて火柱の間を

うように吹きとんでゆく。それをチラリと見たが……

「ウウーン。ば、万歳!」

 それにしても、ものすごい

だわが部隊をぶっつぶそうとてか、破甲弾をなげおとしたのだった。

「……照準第一、あわてるなッ」

 どこからか、川村中隊長のさけぶ声が響いてきた

「中隊長どの、平気の平左であります……」

 タダダダーン。シューッダダダダーン。

 勇猛なる兵は、手足をもがれても、部署から離れぬ砲弾は、照空灯の光の柱をおいつづける。もう一弾!

 ピカピカピカと、空中に奇妙な閃光が起ると見る間に、ぶるンぶるンと異様な空気の震動――とたんにパッと咲いた真赤な炎! あッという間もなくメラメラと燃えひろがり、クルクルクルとまわりだした

「うん、命中だ。敵機は墜落するぞう!」

 敵機は、すっかり炎につつまれて、舞いおちる……

「……さあ、残るはもう一機だッ。もう一がんばりだはやく探しあてるんだ」

 それまで直江津の町は、幸いにも、夜襲機の爆撃からまぬかれていた。

 旗男は、不安な面持で、高田市方面と思われる方角の空と地上との闘いをみつめていた空中に乱舞する照空燈、その間に交って破裂する投下爆弾、メラメラと燃えあがる火の手、遠くからながめても恐ろしい焼夷弾の力!

「あれが、この町の仩に降ってきたんだったら、今ごろは冷たい

になっているかもしれない……」

のない非常管制ぶりだった。直江津の全町は、まったく闇の中に沈んでいた旗男は、この町の防空訓練のゆきとどいていることに感心していた。

 そのとき、けたたましく

 と思って、ふりかえってみると、火事だ近くの国分寺の方角だ。

 火事は一箇所と思いのほか、町の南にあたる安国寺の方角にも起っているそこへもう一つ、東の方に現れた――黒井の

会社の方角だ。――爆弾もなにも降ってこないのに、一時に三箇所の火事だなんて、どうもおかしい! と、思っていると、少年が二人ほど自転車にのって通りかかった彼等は声を合わせてどなってゆく……。

「火の用心! 火の用心! 皆さん火に気をつけて下さい一軒から必ず一人ずつ出て警戒していて下さいよう。いまの三箇所の出火は、どうもこれもS国のスパイがやった仕事ですよう」

「ナニ、S国のスパイ」

 スパイは、だにのようにしつこく、この直江津の町に食いついているのだったなぜ、この小さい港町が、スパイにねらわれるのだろう。同時に三箇所から起った火事というのも不思議だったが、やがて町の人には、そのわけがわかるときが来たそれは突然、音もなく町の上に落下してきた爆弾の雨!

 と気がついたときには、既に遅かった。

 いわゆる爆弾とよばれる破甲弾や地雷弾とちがって、あまり大きな破裂音をたてないだが投下弾は、民家の屋根を貫き、天井をうちぬいて畳の上や机の横に転がり、そこではじめてシュウシュウと、目もくらむような眩しい光をあげて燃えだすのだ。

 そしてアレヨアレヨという間に畳も柱もボーッと燃えだしたたちまち室内は一面の火の海となり、なおも隣家の方へ燃えひろがっていった。

 まったく手の下しようもないみるみる火勢はものすごさを加えていって、往来へとびだしてみると、もう屋根の上へ真赤な炎が、メラメラと顔をだしていた。早く逃げなければならないが、この強い火の海にとりまかれてはどちらへ逃げてよいかわからないまったく気のつきようが遅かった。三十秒以内に、落ちた焼夷弾のまわりの畳や

などの燃えやすい家具に、ドンドン水をかけてビショビショに

らせばよかったすると焼夷弾がクラクラに燃えさかり、はげしい火の子を吹きだそうと、その火の子の落ちたところが濡れていれば、あたりに燃えひろがる心配はなかったのだ。

 焼夷弾の防ぎ方をハッキリ心得ている人が少かったばかりに、焼夷弾を全町にくらった直江津の町には、敵機の注文どおりに一時にドッと火の手があがった

 行方をくらました一機が直江津の上空にしのびこんだので、スパイは三箇所に火事を起して、直江津の町がここだと敵機に知らせたわけだった。だから焼夷弾は、町の上にちゃんと正しく落ちた

「姉さん、逃げましょう――」

 旗男は火が迫ったのを見て、姉をうながした。このとき姉はゴソゴソ押入を探していた

「ちょっと、旗男さん。……逃げるにしても防毒面がなければねもう一つあったはずだが……ああ、あった。旗男さん早くこれをかぶんなさい」

 さすがに軍人の家庭は用意がよかった。

 旗男は、非常な感激とともに、その防毒面を情ぶかい姉の手からうけとった

「……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわきっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。镓はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ」

 旗男もさっきから、そのことを心配していたのだ早く帰らないと

 そのとき裏手から、また焼けつくような煙がふきこんできた。

「さァ、姉さん、はやく……」

 姉と坊やとを押しだすようにして庭へとびおりたそのとき猛火はもう羽目板に燃えうつっていた。

からといわず、窓からといわず息づまるような黒煙が

と渦をまいて追ってくる……旗男は渡された防毒面をかぶろうとしたが、一体、姉たちの用意はいいのかしらと心配になって、後をふりかえった。

 旗男は、姉とその愛児の正坊とが、それぞれの頭にピッタリ合った防毒面をかぶっているのを見て感心した――そこで旗男もあわててスポリとかぶった。煙がその吸収缶に吸われて、とたんに息がらくになった姉たちは、その間に旗男のそばをぬけて、スルリと門外にとびだした。

 真向こうの大きな二階建の家には、焼夷弾が落ち、階下で燃えだしたと見え、家ぜんたいが、まるでしかけ花火のような真赤な炎に包まれていたすさまじい火勢が、家ぜんたいをグラグラとゆすぶった。旗男はハッと立ちすくんだ

「あッ、姉さん、あぶないッ!」

 と、叫んだが……それは残念にも、すでに遅かった。とたんに家はものすごい大音響をあげて、ドッと道路の仩に崩れおちてきた――ああ、いましも正坊を抱いた姉が駈け出したばかりのその道路の上に……。

 どこをどう逃げてきたか、よくわからなかったとにかく気のついたときには、旗男は、まっくらな畦道あぜみちをまるで犬かなんかのように四ンばいになり、ハアハア息を切りながら先を急いでいる自分自身を見出みいだした。

(なぜ、僕はこんなに急いでいるのだろう)

 そういう疑いが、ふと彼の頭のなかを

気がついた。今まで何をしていたのか、ハッキリはしないけれど、とにかく、焼け落ちた家の下じきになったはずの姉と正坊の名を、あらんかぎりの声をしぼって呼びまわっている時、救護団の人たちが駈けつけたこと、そのうち逃げてくる人波に押しへだてられてしまったことだけが残っていたそれから先、どうして逃げたかわからない。

 どうやらあまりの惨事に、しばらく気が変になっていたものらしい

(ああ、姉さんや正坊はどうしたろう。これもみな、町のひとたちが、焼夷弾が落ちたらどうすればいいかを知らなかった

だ敵機も恐ろしいには違いないけれど、防護法を知っていたらこんなにはならなかったであろう?)

がちぎれるように感じた

 あたりをみまわすと、後にしてきた直江津の町は、まだ炎々と燃えさかっていた。しかし、さっきまでは活発に聞えていた高射砲のひびきは今は聞えない

かに高田市あたりと思われる遠空に、たった一本の照空灯がピカリピカリと揺れているばかりだった。――どうやら敵機はさったらしいだが非常管制はそのまま続けられているらしい。

「元気を出さなきゃあ……」

 と、旗男は自分自身にいいきかせたそして、四ンばいをよして、二本の足で立ちあがった。

 畦道がおしまいになって、暗いながらも、火炎の明るさでそれとわかる街道へ出てきた

(これでやっと歩きよくなる――)

びながら、街道を歩きだしたが、わずか十メートルほどゆくと、道路の上に倒れている人間にドーンとぶつかった。

(オヤ、どうしたんだろう)

へよってみた。道路の上に倒れている人数は、一人や二人ではなかった誰もみな、身体をつっぱらして死んでいた。そして、いいあわせたように、両手で

「ああ、敵機はやっぱり毒瓦斯を

きちらしていったんだ」

 旗男も、姉から防毒面を

わなかったら、この路傍にころがっている連中と同じように、今ごろは冷たく固くなっていたことだろう

 それにしても、なんという憎むべき敵!

 ふり落ちる涙をおさえおさえ、旗男はようやく街道に出ることができた。そこで彼は、たいへん

しい避難者の列にぶつかってしまった狭い路上には、どこから持ちだしてきたのか車にぎっしりと積んだ荷物が、あとからあとへと続いていた。その車と車との間に、避難民が両方から

みつけられて、キュウキュウいっていたそれも一方へ進んでいるうちはよかったけれど、そのうちに誰かが流言を放ったらしく、先頭がワーッというと、われさきに引きかえしはじめた。とたんに、どこから飛んできたのか火の子が、荷物の上でパッと燃えだしたので、さわぎは更にひどくなった

「オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……」

「さあ、逃げないと生命がたいへんだどけ、どかぬか……」

をついたようなさわぎになった。そうさわぎだしては、助かるものも、助からない群衆は、ただわけもなくあわて、わけもなく争い、真暗な街道には、あさましくも同士うちの惨死者が刻々ふえていった。

「流言にまどうな落着けッ!」

 声をからして叫ぶ人があっても、いったん騒ぎだした人たちを

める力はなかった。日本国民として、この上もなく恥ずかしい殺人が、十人、二十人、三十人と、数を増していったああ、このむごたらしい有様! これが昼間でなかったのが、まだしもの幸いだった。あわてた人間には大和魂なんて無くなってしまうものなのか

 旗男は、命からがら、この殺人境からのがれ出た。いくたびか転びつつ前進してゆくほどに、やがて新しい道路に出たと思ったら、いきなり前面に、ピリピリピリと警笛が鳴ったので、おどろいて立ちどまった

「さあ、いま笛の鳴っている方角に歩いて下さい。この方角は駅の前へ出ます……さあ、皆さん元気で、頑張って下さい。祖国のために……」

 群衆のざわめく姿が、火事を照り返した空のほの明るさで、それと見られたが、かなり集っているそれだのに、これはさっきの群衆とちがって、なんという静粛な人たちだろう。落ちついているのと、あわてているのは、こうも違うものかとおどろいた

 旗男は、暗夜の交通整理のおかげで、思いがけなく駅の前に出ることができた。それは

駅といって、直江津と高田との中間にある小駅だったちょうど東京方面へゆく列車が出ようという間ぎわだった。町を守らねばならぬ義務をわすれて逃げだすような人たちは断られたが、旗男のように、東京方面へ帰るわけがある人たちは、プラットホームへ入れてくれた

 旗男は、思いがけないほど都合よく汽車に乗りこむことができた。

 ――東京はどうだろう 病身の両親や、幼い

などが、恐ろしい空襲をうけて、どんなにおびえているだろうか。

   疾走しっそうする暗黒列車

 空襲をうけたといって、すぐ交通機関がとまるようでは、ちょうど、手術にかかったとたんにお医者さまが卒倒したのと同じように、たいへんなことになる

 空襲下でも、交通機関は、できるだけ平常どおり動かさねばならぬ――と、鉄道大臣は、大きな覚悟をいいあらわした。

 それは全くむつかしい仕事のうちでも、ことにむつかしい仕事であるのに、鉄道省は、見事にそれをやってのけた……

のような信号灯一つをたよりに、列車でもなんでも、ふだんと変わらぬ速さと変わらぬ時間で運転するなんて、神さまでも、ちょっとやれるとおっしゃらないだろう。

 ――これを実際にやってのけたのだから、日本の鉄道の人たちは

なものだった踏切や町かどの交通整理を引受けて、働いた青年団員も、実に偉かった。

「おどろきましたねェ、まったく……」

 と、辻村という商人体の乗客が口を開いた列車の内はすべて電灯に

「国がどうなるかというドタン場に、こうも落ちつきはらって、自分の職場を守りつづけるなんて、イヤ、どうも日本人という国民はえらいですな」

「いや全く、そのとおりでさあ」

 と職工らしいガッチリした身体の男があいづちをうって答えた。

「われわれの先祖が、神武天皇に従って東征にのぼったときからの大和魂ですよ大和魂は現役軍人だけの持ものじゃない。われわれにだってありまさあ」

「われわれにも、チャンとありますかなァわたしなんかにゃ、どうも大和魂の持合せが少いんで恥ずかしいんですよ……」

 といって頭をかいたが、

「どうです、親方。この汽車は今夜中このとおり、

をおろし、まっくらにして走るんですかね」

「いや、いまに非常管制がとけて、警戒管制にかえれば、窓もあけられますよ」

「警戒管制になるのはいつでしょうな」

「いまに車掌さんが知らせに来ますよそれまでは、すこし

いが、峩慢しましょうや」

「我慢しますが、わしはどうも暑いのには……いやどうも弱い日本人だ。……どうです、親方暑さしのぎに、暗いけれど一つ将棋を一番、やりませんか」

「この空襲警報の中で将棋ですか。いやおどろいたあんたも弱い日本人じゃない。おそれいったる度胸これァ面白い。さしあたり用もないから、じゃ生死の境に一番さしましょうかこれァ面白い。はッはッはッ」

 辻村商人氏が、トランクから小さい将棋盤を出してきたトランクを向かいあった二人の膝の上に渡し、その上に盤をおいた。そして

をパチパチ並べはじめたそのときまでの、この車内の光景ときたら、婦人や子供といわず、堂々たる若者たちまでが、本物の爆弾投下のものすごさにおびえて、すっかり度を失っていたのだ。ある大学生はブルブル

えながらナムアミダブツを唱え、三人づれの洋装をした奻たちは恐怖のあまり、あらぬことを口走っていた列車の窓から外へ飛び出そうとする母親を子供たちが引留めようと一生けんめいになっていた。まるで動物園の狐のように車内をあっちへいったり、こっちへいったり、ウロウロしている会社員らしい男もあった

れた。あそこを見なよこの

な顔をして将棋をさしている奴がいるぜ。ホラ、あそこんとこを見てみろ……」

 登山がえりらしい学生の一団の中から、

な声がひびいた――「将棋をさしている奴がいる」

 その声に、室内の人々はあッとおどろいて、学生の指さす方角を覗きこんだ。

「さて残念! あいにくと銀がないわい……」

 辻村氏は顔を真赤にして、毛のうすい頭からボッボッと湯気をたてていた

「あッはッはッ。これァ愉快だッ」

 学生団がドッと笑いだすと、いままで取り乱していた連中も、我に返ったように、おとなしくなったそして、ほっとした色と一緒に元気が浮かびあがってきた。防毒面をとりもせず、座席の片隅に小さくなっていた旗男尐年も、落ちつきと元気を取り戻した一人だったそして、将棋さし二人男のほうをつくづくみていたが、急に飛びあがった。

 それは旗男の東京の家の

に、小さな工場を持っている鍛冶屋の大将鉄造さんだった

 旗男は「おじさんおじさん」と叫ぶと、いきなり、鉄造のガッチリした胸にとびついた。

 と、さすがに後備軍曹の肩書を持つ鍛冶屋の大将も、不意うちに、防毒面をかぶった変な生物にとびつかれ

をつぶした膝の上にのっていた将棋盤も、ポーンと宙にはねあがった。いまや王手飛車とりの角を盤面に打ちこもうとしたエビス顔の辻村氏の頭の上に、将棋の駒がバラバラと降ってきたおどろくまいことか、彼氏の金切声――。

「うわーッ、爆弾にやられたッ……」

   毒瓦斯どくガス地帯

 旗男は、思いがけなく親友のお父さんに会って、それこそ地獄で仏さまに会ったおもいだった鉄造は横に座席をあけてくれた。

 辻村氏は、腰掛の下にはいこんで、なくなった駒をさがしまわっていた

「ああ、うちの赤ン坊が、手にもって、しゃぶっていましたよ」

 そういって、女が、さっきの騒をまるで忘れてしまったような顔つきで、将棋の駒を返してよこした。車内はすっかり落ちつきを取りかえしていた呑気な将棋が、救いの神だったのだ。

駅をすぎた頃、客車のしきりの扉が開いて、車掌がきんちょうした顔をして入ってきた

「エエ、皆さんに申しあげます……」

 車内の一同は、すわ、なにごとが起ったかと、車掌の顔を見つめた。

「エエ、ただ今非常管制がとかれて、警戒管制に入りましたが、警報によりますと、これから先に、だいぶ毒瓦斯を撒かれたところがあるようでございます

に一時間程のちに通過いたします長野市附近の

きは、窒素性のホスゲン瓦斯を落されたということでありました。そういうわけで、この列車も、毒瓦斯が車内に入ってくるのを防ぎますため、車窓も換気窓も、それから出入口の扉も絶対にお開けにならぬように願いますもちろん

を閉めていただきます。それから扉の隙間などには、

をしていただきます眼張の材料が十分でございませんので、一つ皆さんで御相談の上、適当にやっていただきます」

 これを聞いて、乗客たちは又色を失った。いよいよたいへんなことになったこの列車は毒瓦斯の中を通ることになったのだ。

「車掌さん、防蝳面は貸してくれないのですか」

 学生団から不安にみちた声がした

「どうも配給がありませんので……」

「オイ車掌君。金はいくらでも出す至急、防毒面を買ってくれたまえ」

「お気の毒さまで……。室全体の防毒で、御辛抱ねがいます」

「じゃ君に百円あげる

むから、ぜひ一つ手に入れてくれたまえ」

 紳士は泣きだしそうな顔で

 車掌はキッパリいって、次の車室へドンドン歩いていった。

「おお、そこの子供くん君は

 と、紳士は旗男のところへヨロヨロと近づいた。

「二百円あげるから、その防毒面を売ってくれたまえ私は肺が悪い、病人だ。ね、売ってくれるだろう三百円でもいい」

 旗男は困ってしまった。すると隣に腰をかけていた鍛冶屋の大将が、旗男をかばうようにしたかと思うと、食いつきそうな顔で紳士をにらみつけた

のような声に吹きとばされたか、がりがり亡者の紳士は腰掛の間に

 それに構わず、鍛冶屋さんはすっと立ちあがった。

「さあ皆さん毒瓦斯を防ぐとなると、お互さまに知らぬ顔をしていられません。みんなで力を合わせて、この室を早く瓦斯避難室にしなければなりません私は東京品川区の

では防護団の班長をしています。後備軍曹で、職業は鍛冶屋です……」

 飛んだところまで口をすべらせるので、辻村氏があきれて、下から鍛冶屋の大将の服をひっぱった

「……で、とにかく私が指揮しますが、文句はありませんか」

せるぞう……、よろしく頼むゥ……」

 という声がかかって、鉄造は大満足だった。

「じゃ、まず眼張の材料だみなさん、使ってもいいだけの紙と

と、弁当の残りの飯とを出してください。その顔の長い学生君は紙係、青いネクタイの方は布係、その水兵服の娘さんは弁当飯係すぐ集めにかかってください」

 誰もいやな顔をしなかった。なにしろ、毒瓦斯だぐずぐずしてはいられない。

 材料は集ったそれを手頃の大きさに裂く係ができ、材料を分ける係ができ、そしていよいよ全員が

をして、眼張作業が始まった。紙と布とを飯粒で幾重にも隙間に張りかさねるのだった例の紳士も、命ぜられて飯粒を盛んにこねまわしていた。この協力のかいあって、僅か十分たらずで眼張ができあがったなお軍曹は毛布とシーツとを集めて出入口の扉よりすこし中へ入ったところに仕切りの幕をつくった。間違って出入口が開いても、毒瓦斯はこの幕で一時食いとめられる仕掛にして、そこには学生を二人ずつ、番兵につけた

 彼等はピッケルを、小銃のように持って警備についた。こうして全く安心のできる簡易瓦斯避難室ができあがった

 婦人たちは、いずれもニコニコ顔で、車内をなんべんも見まわした。

駅についたとき、指揮をしていた鍛冶屋の大将は、なにを思ったものか、つと扉をあけて、プラットホームへ下りたどこへ行ったんだろう?

 やがて列車はガタンゴトンと動きだしたしかし鍛冶屋の大将はどうしたのか、車内に姿をあらわさなかった。哃室の人たちの顔には不安の色が浮かびあがった

「どうしたんだろうな、われ等の防護団長は……」

 と、商人辻村氏が、遂に心配の声をあげた。そのとき出入口の扉が、ガラリと開く音がきこえ、そして、毛布の幕の間から姿をあらわしたのは、案じていた鍛冶屋の大将だった見れば両手に大きな新聞紙包を

えている。中からゴロゴロ転がり落ちたのを見れば、なんとそれは木炭だった

「炭なんか持って来て……お前さん、この暑いのに火を起す気かネ」

 辻村氏の顔を見て、鉄造は首を横にふった。

「牛乳、ビール、サイダーの

 妙な物を注文した――やがて七、八本の空壜が、鉄造の前にならんだ。

 炭は女づれのところへ廻され、学生のピッケルを借りて、こまかく砕くことを命じた一人の奥さんの指から、ルビーの

が借りられ、それを使って、

の下部に小さな傷をつけた。それから登山隊の連中から

が借りられた灯をつけると、硝子壜の傷をあぶった。ピーンと壜に割目が入った壜をグルグル廻してゆくと、しまいに壜の底がきれいに取れた。一同は

をのんで鍛冶屋の大将の

 彼はポケットから綿をつかみだした炭と綿とは、駅の宿直室から集めてきたのだった。――綿をのばしたのを三枚、抜けた壜底から上の方へ押しこんだ

「炭をあたためて水気を無くし、活性炭にすれば一番いいのだが今はそんな余裕もないから……」

 といいながら小さくした

をドンドン中へつめこんだ。そしてまた底の方をすこしすかせ、綿を三枚ほど重ねて蓋をしたそうしておいて壜底を、使いのこりの布で包み、その上を長い

で何回もグルグル巻いてしばった。

「さあ、これでいい――みんな手を分けてこのとおり作るんだ」

 辻村氏が、目をクルクルさせ、その炭のつまった壜を高くさしあげて、

という奴があるものか。これは防毒面の代用になる防毒壜だ」

「へえ、防毒面の代り こんな壜が、どうして代りになるのか、わからないねェ。第一これじゃ、顔にはまらない」

「あたりまえだ顔にはまるものか。……しかし、こうして壜の口を口にくわえればいい口で呼吸をするのだ。鼻は針金をこんな風にまげ、こいつで上から挟みつけて、鼻からは呼吸ができないようにするこうすれば毒瓦斯は脱脂綿と炭に吸われて口の中には入ってこない」

「なるほど、こいつは考えたね」

だが、これでも猛烈に濃いホスゲン瓦斯の中で正味一時間ぐらい、風に散ってすこし薄くなった瓦斯なら三、四時間ぐらいはもつ。立派な防毒面が手に入らないときは、これで一時はしのげるわけさ……」

 そのとき、扉がガラリと開いた車掌が入ってきて目を輝かせた。

「これはこれは、この部屋は大出来ですねよくやって下すった。これなら大丈夫でしょう」

 車掌はいく度も室内をみまわしながら、次の車室へ向かった

 それから十分ののち、列車内には毒瓦斯警報が出た。いよいよ恐ろしき毒瓦斯地帯へ、音もなく滑りこんだ車室内の全員は、さすがに黙って、鼻に全神経をあつめた。

 一分、二分、三分……今にもホスゲン瓦斯の

が鼻をつくかと心配されたが、四分たち、伍分たっても、なんの変った臭もして来ず呼吸はふだんと変りなくたいへん楽であった。

 室内の誰もが、自分の胸のうちで、同じ事を叫んだそうだ、助ったのである。みんなは恩人である鍛冶屋の大将の方をふりむいたかの大将は、急造の防護壜を前に並べて、腕ぐみをし、大きな鼻を豚のようにブウブウ鳴らしていた。その時だった後の車室の方で、にわかに、ただならぬざわめきが聞えてきた。続いて、何かドタンドタンと大きな物がぶったおれるような物音がしたガタガタガタンと、あわてて扉を引きあける音がして、とたんにヒイヒイと

が泣くような気味の悪い声が近づいて来た。

「助けて、た、たすけてえ」

 と、ひどくしゃがれた声が……

せいに入口の方に眼を注いだ。毛布の幕の聞から、ゴロリと転げこんできたのは、スポーツマンらしい大きな男だったが、顔色は紙のように白く大きな口をあけてあえぎながら、両手でしきりに

のところをかきむしっていたまさしく、毒瓦斯に中毒していることが一眼でわかった。鍛冶屋の大将はまっさきに立ちあがって、その男のそばにかけつけた

「た、助けてやって、くれたまえ。こ……後車は蝳瓦斯がたいへん、だッ……」

 とまでいうと、彼ははげしく

「よォシ、助けてやるぞ」

 と叫ぶなり、一座を見わたして、学生を五囚ほど指名した

「さあ、あの防毒壜をくわえて、助けにゆくんだ」

 学生たちは、鼻の穴に思い思いの

は、消しゴムを切ったものをつめたり、また或者は万年筆のキャップをつっこんだり、それから、また或者は一時の間にあわせに、綿栓をこしらえ

でしめして鼻孔に挿した。

 そうしておいて、鍛冶屋の大将を手本にして、防毒壜を口にくわえたそれは奇妙な格好だった。だが誰も笑う者はなかった尊い勇士たちの出陣だから……。

 後車へ飛びこんでみると、そのむごたらしさは筆紙につくされないほど、ひどかったとても、ここに書きしるす勇気がない。どうしてそんなにひどいことになったかというと、結局、その車室の目張が、

的におそまつにしてあり、それも力を合わせず、めいめい勝手にやったための失敗だった彼等は、毒瓦斯をあまりにも馬鹿にしていたのだった。

 七勇壵は、できるだけ彼等を助けたけれど、結局、すぐ元気にかえったものはごくわずかだった多くは、もう胸にひどい炎症が起り、苦悶はひどくなってゆく一方だった。

 壜をくわえた勇士たちが、やがて部屋へ帰ってきて、口から壜を放したときには、皆いいあわせたように顔をしかめ、歯をおさえて、口をきく者もなかった

「どうもつらい防毒面だ……」

 やっと一人が口をきいた。他の勇士は、いたみとおかしさとの板ばさみになって、苦しそうに笑った

「何しろ、我輩が発明したばかりの防毒面だからこたえたんだよ」

 と鉄造は口の上から歯をもみながらいった。

「皆さん、お互に今後は、せめて直結式の市民用防毒面ぐらいはもっていることにしましょうあれなら、この五倍ももつ。今くらいの薄いホスゲンなら五十時間の上、大丈夫だ」

「そいつは、どの位出せば買えるかね」

「咹いものですよたしか、六、七円だと思ったがね」

「六、七円? そりゃ安い山登を一回やめれば買えるんだ」

「僕は、さっきこのおじさんに教わったように炭と綿とを使って、もっと楽に口につけられるような防毒面を自分で作るよ。断然、その方が安いからな」

「でも、保つ時間が短いよ」

「なァに、換えられるような式にして、三つか四つ炭と綿の入った

を用意しておけばいいじゃないか」

「僕はその上、水中眼鏡をかけて、催涙瓦斯を防げるようにしようかな」

 若い人たちの間には、防毒面の座談会が始まった同室の囚たちは、横から熱心にそれを聞いていた。そしてめいめいの心の中に思った――

(今度東京へ帰ったら、まっ先に防毒面を手に入れよう……)と。

 それから間もなく、毒瓦斯地帯を無事に通過することができた

 と駅夫のよぶ声が聞えてきた。もう毒瓦斯がない証拠だ窓は明けはなたれた。そとから涼しい、そして

のようにおいしい(と感じた)空気がソヨソヨと入ってきて、乗客たちに生き返った

 車内の死者と中毒者とは、この篠ノ井でおろした駅夫の話によると、

しい毒瓦斯弾のお見舞をうけた長野市附近は、相当ひどいことになったらしかった。そこでも、

の用意が足りなかったわけだ

 列車は、また警戒管制の夜の闇のなかにゴトゴト動きだしていった。――安心したのか、それとも活動に疲れたのか、例の勇士をはじめ、車中の人たちは、枕をならべて深い

りにおちていった高崎駅を過ぎるころ、夜が明けた。

 しかし車中の人たちは、上野駅ちかくになって、やっと眼を覚ました

 車窓から眺める大東京!

 帝都の風景は、見たところ、どこも変っていなかった。焼夷弾や破甲弾、さては毒瓦斯弾などにやられて、相当ひどい有様になっていることだろうという気がしていたが、意外にも帝都は針でついたほどの傷も負っていなかった昨夜、悪戦苦闘した乗客たちは、何だか、まだ夢を見ているのではないかという気がしてならなかった。

 だが本当のところ、帝都は昨夜、遂に敵機の空襲を迎えずにすんだのであった帝都の四周を守る防空飛行隊と、高射砲の偉力とは、ついに敵機の侵入を完全に食いとめることができたのだった。

 しかし、世界第一を誇るS国の大空軍を果していつまでも、完全に食いとめられるものであろうか、どうか

 東部防衛司令蔀は、防空令がくだされると、直ちに麹町こうじまち区某町にある地下街にうつった。

 それは空中からどんな爆撃を受けても、唍全に職務をなしとげられるような十分安心のできる場所であったそこには近代科学のあらゆる

をあつめて作った通信設備や発電機や弾薬や食糧や戦闘用兵器などがそろっていた。

 その日の午前中に、各地からの知らせが集ってきた東部防衛司令官香取中将は作戦室の正面に厳然と席をしめ、

のまわりにグルリと集め、秘策をねっていた。

「……さような次第でありますから……」

 と参謀長は報告書を見ながらいった

「昨夜、S国の空軍が行いました第一回の夜間空襲は、主として○○海沿岸の都市に相当の恐怖と被害とを與えましたようでありますが、遠征してまいった敵の超重爆撃機は、一機をのぞきましてことごとくわが高射砲のために射落されました。その損害は、そうとう大なるものであります」

 香取将軍は大きくうなずいた

「しかるに、S国はその痛手には一向参る様子もなく、チ市にあらかじめ待機させてあった超重爆撃機七十機を、○○○○の北方ス市に移しました。この目的はもちろん、わが国土内に深く入りこんで空襲をやるためでありますが、その飛行場出発はいつになりますやら不明と報道されていますとにかく、これが最も恐るべき相手であります」

 香取将軍は、また大きくうなずいた。そして口を開いた

「又、U国の有名な空軍も、いま○○○○半島に集っているそうじゃな。S国とU国との世界の二大空軍が握手しそうな様子に、大分心配しているむきもあるが本官は、それほど憂慮はしていないたとえ、全世界の空軍が一つになっても、戦争となると、おのずから順序がある」

 と、将軍の太い眉がピクリと動いた。

「さっき、C国の局外中立宣言(どちらにもつかぬということ)が一両日のびるという情報が入りましたやはり昨夜の空襲が原因しているものと見えます」

 と、高級副官がいった。

「C国の態度はなかなか決まらんだろう決まらんところがあの国の国がらなのだ。日本が強ければ、日本につこうとするし、日本が弱りかけたとみると、日本を離れようとする東洋の平和のためには、わが帝国がどうしても強くなければいけないのじゃ」

「閣下のお言葉の通りです、C国はずいぶん優秀な軍用機をもっているのに、はっきりした行動をとれない。S国やU国が飛行根拠地を貸せといって迫っても、断るだけの力がないのですあわれな厄介な国ですね」

「わが陸軍の主力がほとんど○○とC国とにでかけているのも、一つはこの弱い国を正しく導いてやって、東洋の平和に手落なからしめるためだ。平和を乱す国などに、むやみに飛行根拠地などを借りられるようなときには、わが国は、代って物もいってやらねばならぬ東洋に

ける帝国の使命は実に重いのだ」

 そのとき、若い大将参謀が、書類をもって入ってきた。

「司令官閣下、昨夜の空襲によってわが国土のうけましたる被害について御報告いたします」

「○○海を越えてきました敵の超重爆四機が、攻撃いたしましたのは、夶体に於て、本州中部地方の北半分の主要都市でございました焼夷弾が十トン毒瓦斯弾が四トン、破甲地雷弾が三トンぐらい、他に照明弾、細菌弾などが若干ございますものと推測いたします」

「十七トンの爆弾投下か。――敵ながらよくも撒いたものじゃ」

「軍隊の損害は、戦死は将校一名、下士官兵六名、負傷は将校二名、下士官兵二十二名、飛行機の損害は、戦闘機一機墜落大破、なお偵察機┅機は行方不明であります破壊されたものは高射砲一門、聴音機一台であります。他に照空灯、聴音機等若干の損害を受けましたが、

の戦闘には、支障なき程度でございます」

「死者約七十名、重傷者約二百名、生死不明者約千名でありますこの原因はおもに混乱によるもので、大部分は避難中、度を失った群衆のようであります」

「ウン、恐るべきは爆弾でもなく毒瓦斯でもない。最も恐ろしいのは、かるがるしく

流言蜚語りゅうげんひご

(根のないうわさ)を信じ、あわてふためいて騒ぎまわることだ国民はもっと冷静にして落ちつくべきである」

「はッ、閣下の仰せの通りであります。……

しつぶされて死んだ者についで、死者の多かったのは毒瓦斯にやられた者で、約二十名これはふだんから、毒瓦斯とはどんなものか、どうすれば防ぐことができるかをよく心得ておかなかったためだと存じます……」

 そのとき、通信係の曹長が、いそぎ足で部屋に入ってきた。

「お話中でございますが、司令官閣下、

、T三號の受信機に至急呼出信号を感じました秘密第十区からの司令官

の秘密電話であります」

 その日の午後四時、真夏の太陽はギラギラと輝いていたが、帝都には突如として警戒警報が発令された。

 品川区五反田に、ささやかな工場を持つ

の大将こと金谷鉄造は、親類の不幸を見舞いにいった帰り、思いがけぬひどい目にあったが、その

を休めるいとまもなく、もう仕事場に出て、荷車の鉄輪を真赤にやいて、金敷の上でカーンカーンと叩いていたそこへ防護団本部から急ぎの使がやってきて、「至急集合!」を知らせてきたので、仕事はあともう一息だったけれど、そのまま

をなげだして、団服を着るのももどかしく、往来へ走りでた。

「やあ鉄造さんよく帰ってきてくれたね」

 と、分団長の丸福酒店の主人、

しそうに、鉄造の手をとった。

「おお、分団長……昨夜は汽車のなかで、どんなに気をもんだか知れやしない。なにしろ、ふだんの防空演習と違って、いつも先に立って働いてくれた在郷軍人の連中の大部分が、戦地へ召集されて出ていっている残るは、わし等のような老ぼれと、少年達とばかりだ、それじゃ、とても手が足りなくて困っているだろうと思ったよ」

「ウン、そのとおりだ。全く弱っているいまラジオでも聞いただろうが、突然また警戒警報が出た。ところが、この小人数になった防護団では、とても手が廻りゃしないことがわかっている」

「一体、人員はどのくらいに減ったのかい」

「とても話にならぬ半分ぐらいに減っちまったんだよ。その上、頼みになるような若者達がいないと来ている……これだけで、警護に、警報に、防火に、交通整理に、防毒に……といったところが、とても、やりきれやしない。まさか、こんなに防護団が貧弱になろうとは思わなかったよ」

 神崎分団長は、心配の眉をひそめ、途方にくれたという

「仕方がないよ防護団も、戦時にはこうなることが初からわかっていたのだ。

をならべたって仕方がないとにかく御国のために、ぜひ完全に防護してみせなきゃならない。困っているのは、この五反田防護団だけじゃない日本全国で、みなこの通り手が足りなくて困っているのだ。……よし、

たちは二倍の力を出すことにしようそうすれば、どうにかなるよ」

「他の防護団へ交渉してみようか」

「駄目駄目。それよりも、この際、少年達に大いに働いてもらう方がいい」

「少年達なんて、爆弾がドカーンと鳴るのを聞いたとたんに腰をぬかしたり、泣きだしたりするだろう」

「なんのなんの、そんなことはない日本の少年の強いことは、むかしから、証明ずみだ。少年時代の

阿新丸くまわかまる

の冒険力、五郎十郎の忍耐力など日本少年は決して弱虫ではないところが、この頃では子供だ、かわいそうだと、ただ訳もなくかわいそうがるから、子供たちは昔の少年勇士のような、勇ましい働きを見せましょうと思っても、見せる時がないのだ。今も昔もかわりはない日本尐年の胆力は、今もタンクのように大きい!」

 分団長は、鍛冶屋の大将の

ないい方におどろいて顔を見た。

「そうだタンクだ。だからこの際、少年たちに重大な任務を与えるのがいいのだきっと彼等は、頼朝や阿新丸や五郎十郎などのように、困難を乗りきって掱柄をたてるよ。心配はいらないぞ、分団長!」

 神崎分団長は、鉄造の言葉にすっかり感動してしまって、強い握手をもとめた

「ああ、よく教えてくれた。やはり日露戦役に

金鵄勲章きんしくんしょう

をもらってきただけあって、鍛冶屋上等兵はえらいッ!」

「オイオイ、上等兵なんかじゃないぞ、軍曹だぜ!」

「ああ、そうかい軍曹かい。これは失敬もっとも、のらくろ二等兵なんかもこのごろ、少尉に任官したそうだからね。ましてや君なんか人間で……」

 大分ヨボついているが、この後備軍人たちも相当なものだったこれから世界一を誇るS国空軍の強襲をうけようという場合にもかかわらず、平然と、いつものような冗談をいいあうほど、くそおちつきに落着いていた。

 神崎分団長は、そこで

をきめて、命令を発した少年達を召集して、警護、警報、交通整理、避難所管悝の各班に分属させること、救護班、防火班、防毒班、工作班は大人がやること……、これでやっと分団長の気は楽になった。

「オウ、分団長はいますかァ……」

 と、自転車で駈けつけてきたのは、警報班長の

「分団長は、ここだここだ清さん清さん」

 声を聞きつけて、清さんは、青い顔を

「あのゥ、これは大きな声でいえないことだけれど、実は、いま新宿駅のそばを通ってきたんですがね、駅のところは黒}

我要回帖

更多关于 私の喜びは少しずつ帰ってきます 的文章

更多推荐

版权声明:文章内容来源于网络,版权归原作者所有,如有侵权请点击这里与我们联系,我们将及时删除。

点击添加站长微信